憧れ

子どもの時分は、長らく社宅暮らしだったから一軒家、特に二階建ての家に憧れた。

階段があるというのが魅力的だった。
田舎の祖父の家は二階建てだったから、夏休みなどに帰省したときは、家の中の階段をわけなく登っては降りて、喜んでいた記憶がある。

小学校低学年の頃、三階建ての家に住んでいた友達は、たまたま住んでいるのが三階建てであるというただそれだけの理由で、周りからすげーすげーと言われていた。

やがて小学校高学年の頃に、二階建ての家に住んでいる友達にそんな二階建てアコガレ話をしたら、その友達は一軒家なら二階建てより平屋の方が羨ましい、天井が高くて開放感があるから、と言った。

そのとき僕は、それだとスペース的にマンション暮らしと一緒じゃないかと思ってあんまり納得できなかったが、その後一人になってよくよく考え直した結果、どうやら二階建てに住み慣れると、さらに次なるフェイズとして平屋アコガレに進化してゆくものらしいと得心するに至った。

それから間も無くして、家族で二階建ての一軒家に引っ越した。

今は平屋住まいに憧れている。

20140130-003042.jpg
写真はひれ酒。
ひれ酒うまい。

しっかりママ

お米が欲しいと思ったので、近所の米屋に赴き、「しっかりママ」という佐賀県産のお米を5kg買った。

お米のことは俗に「ママ」ともいうから、これはつまり「しっかりしたお米」という意味である。

ラベルに書かれている内容を読むと「しっかり」しているのは、味や艶だけではなく、お手頃な価格設定もまたお買い得だから「しっかり」している云々だそうだ。

この場合の「しっかり」は、買う人が「しっかり」している(ママのような人)のを指しているのであって、お米自体がお買い得だから「しっかり」しているというのは成り立たない(その点、このお米はしっかりしていない)。

要は、このお米を買う人は、ママのようにしっかり者ですよ、または奥さんあなたは本当にしっかりものですね、と褒められているのである。

なんと頼もしい商品名であろうか。

主婦の気持ちで帰った。

20140123-193047.jpg

無責任について

外に出るととても寒いので、吐く息が白くなるかと思ったら思いのほか白い息にならないときがある。
そういうときは腹の底から暖かい息を吐いて、白い息が出るようにする。
それで白い息が出ると、やっぱりな、と思ったりする。

この「やっぱりな」はなんだか無責任である。

しかし、実際のところ最近はそこまで寒くない(と思う)。
なので実際は上記のようなこともあまり無い。

というよりも、これは「無責任」というよりも「いいかげん」なことであることに気づいた。
むしろ「中途半端」かもしれない。

いやいや、もしかすると…。
(以下略)

100円ショップのイヤホン

100円ショップのイヤホンの片耳が断線してしまったので、今日はまた100円ショップに行って新しいイヤホンを購入した。

新しく買った100円ショップのイヤホンは耳からカーラジオを流しているような音質で、それまで使っていた100円ショップイヤホンと比べても、さらに酷さを追求した新感覚音質であった。

そんなに音量を出してもいないのに、高音部がきついせいか耳が痛くなってくるので、「これは耳の痛さに耐えるための修行なのだ…」などと気を紛れさせるも、30分もしないうちにどうにも堪えきれなくなった。

それで耳からイヤホンを外した瞬間、ちょうど電車がホームに入ってくるところで、右から左にガタンゴトンと流れていく轟音の、この現実世界の音のパノラマにびっくりした。
なんという存在感と立体感なのだろう。
こういうのは思いがけずはっとさせられて嬉しい。

20140117-184039.jpg

写真はこの前いつものお店で食べた大根と黒霧島。大根は正義。
文章とはまったく関係ありません。

街を歩いていて

今日街を歩いていて、子供のときにぴかぴか踵の部分が光る運動靴が流行ったことを思い出した。
すごく流行ったわけじゃなくて、微妙に薄っすら流行ったシューズである。

暗い夜道などで、道路の端をよちよち歩く子供がいたときには、その足元のライトの点滅でわかるから、後ろから車やバイクが直進したときに交通事故が起こるのを防ぐことができる。
そういえば最近は犬の首輪なんかもよく点滅しているが、あれに似ている。

確か当時、アキレスプラズマなる商品名でCMをやっていた。

僕は、初めて友達がその種のシューズを履いているのを見かけたとき、靴が歩くたびにいちいち光るなんて、これはすごく新しくてかっこいいなと思って欲しがった記憶がある。
ライトの光り方やカラーも、シューズによって何色とか何パターンとか種類が様々にあって、当時そういうのをオシャレに感じていた。

だが、その後まもなく、シューズが光る機能はもともと交通事故を防ぐために実装されているんだということを知って、一気にげんなりして、興味が失せてしまった。

当時の僕からすると、シューズにオシャレでライトが点いている分にはいいけど、事故を防ぐために靴が光るなんて、なんだか親の過保護を受け入れている子供みたいに思えてしまって、それはもうダサいなと思ったわけである。

それで結局、僕は歩くたびにいちいち踵が光る運動靴を一回も履くことはなかった。そして多分これからも無いだろうと思われる。

しかしまあ、あの運動靴はどういう仕組みで踵が光るようになっているのだろうか。今でも謎である。

※※※

今日街を歩いていると、踵にコロコロのついた運動靴を履いた5歳くらいの女児が、後ろからスーッと滑って、僕を追い抜いていった。

そのとき心が荒んでいた僕は、女の子の後ろ姿を見送りながら、「ああ、あんなわけのわからない機能が付いたスケート運動靴、すぐ廃れるかと思っていたのにまだ廃れていなかったのか」と思い、それと同時に冒頭からのぴかぴか光る運動靴のことを思い出したのだった。

NHKのラジオについて

最近はNHK第二のラジオを聴くのにハマっている。

基礎英語とか現代文とか社会とか、そういう中学高校向けの学習内容をラジオで解説するのを家で流している。
声の抑揚とか音の演出がケバケバしくないし、耳触りも良くて、とても落ち着く。

当たり前の事かもしれないけれど、当時よりも授業の内容や狙いがわかるから頭が良くなった気になれるし、よくもまあこんな難しいことを問題にしようとするなあなんて呆れたり、当時忘れていたことを思い出したり、知らなかったことを学んだり、そういう素直な驚きがあって楽しい。

最近は基礎英語でLとRの発音の違いについて学んだ。
子供のときは何度言われてもわからなかったし、参考書で舌の動きが図解してあってもうまく納得できなかったのに、基礎英語先生のおかげでようやく発音の要諦を掴むことができた。

数学は昔から苦手で、タームや法則があってラジオで聴いていてもよくわからない。
それでも、「これは…であるからして、〜なんですね、つまり※※です」なんてさらりと解説されて、よくわからな過ぎて笑ってしまうので面白い。
一方で最近は、数学というのは、記号やパズルだと考えると国語なんかよりもよっぽど何も考えずに、明快にひらめいて解いていけばよい学問なのだということも徐々にわかってきて興味が出てきたので、小学生の算数ドリルでも買って一からやり直そうかと思っている。

ラジオの、あるテーマについて、理路整然と言葉でわかりやすく解説してくれるというのは、聴く方にとってもすっきりしていて居心地良かったりする。
よくできた落語や音楽みたいに聴こえて美しいと思ってしまうときもあるくらいだ。

そういうときは得した気分になって寝る。

大瀧さんの事など

昨日は恋をしようよジェニーズの企画にお呼ばれして、新年早々に弾き語りをしてきた。

大瀧詠一さん逝去の報があったこともあり、自分なりに追悼の意を込めてはっぴいえんどの「抱きしめたい」を演奏した。
この曲は松本隆さんの詩だけど、大瀧さんの唄でしか成立しないような、何とも言えない素朴で軽妙な空気感を持った曲で、僕はminimalsの企画タイトルにしているくらい好きである。

大瀧さんのライブ、一度で良いから観てみたかった。もし演奏するとしたらどういう風にやったんだろう。
「1969年のドラッグレース」を演ってほしい(この曲が僕の一番最初のナイアガラ体験)。

もう一生叶わないと思うと悔しい。
日本全国同じ事を思う人は沢山いるだろうけど、僕もまたやっぱり同じように思ってしまう。本当に残念。

…でもまあ僕はジョンレノンもマイケルジャクソンも見る事はできなかったし、人生の大半はそんなもんだ、などと自分の心に妙な言い訳をしながら昨日は寝た。

明けましておめでとうございます

年が明けたので中央線に乗って都内の実家へ向かう。

今日は普段より少し暖かいせいか年始から外を歩く人多い印象。
妙に余裕があるような、あの正月特有の静けさがあまり感じられないなと思った。

最近NHKラジオ第二を聴いていて、そこから学んだ情報によると、少なくとも江戸の終わりから明治大正の時代は、市民が年始の挨拶参りで東京中を歩き回るため、正月期間中は道という道が大混雑していたそうだ。
もっと煩くて、騒々しい期間だったらしい。

それに比べればマシだ。
そして今の方が良いなあと考えていたら実家に着いた。