届け

街角などで孤独な様子の人を見かけて、その人の表情に寂しさを見つけたからといって、まったく見ず知らずの他人が「あなた大丈夫ですか、あなたは一人じゃないんですよ」などといきなり物申すと話がややこしくなることが予想される。

いかにあなたが優しいとはいっても、その優しさが誰にでも通じるものだと思うのは、ちょっと考え物である。
大体、あなたがその寂しげな誰かを見かけたというのも自分の主観であって、自分の中に寂しげな誰かを見つけたいだけの、あなたの物悲しい欲求かもしれない。

もしかすると、相手はそれを敏感に察知して、あなたのことを偽善者と罵ることだってあるだろう。

そうなると今度、善良なあなたは帰り道で自分が偽善者かもしれないというテーマについて悩み続けることになる。

それを見かけた見ず知らずの他人が「あなた大丈夫ですか、あなたは一人じゃないんですよ」と話しかけてくることはあるかもしれないが、これはまったくディスコミュニケーションである。
新しいテーマを見つけたい人以外にはオススメできない。

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最近はすっかり大人になったので突発的な感情に振り回されることは少なくなった。
よく他人から「頭がおかしい」「目が据わり過ぎ」「平気で人を刺せそう」などと積極的に評され、とかく狂犬病に罹ったイヌのようなイメージを持たれてきた僕だが、もしかするとこれは心持ちが多少は穏やかになってきているという兆候かもしれない(神様ありがとう!)。

例えば先述の文章(「三月を歩く」参照)にもあったとおり、僕はいわゆる「哀しい」感情が去来したときに、その感情を「賛美」したり「スタイル」にして色づけすることは少なく、なるべくそのままの感情の所在を自分の中で突き止めて「分析」し、その作用を客観視するに留まらず、「まあそういうものである」とねんごろに自分史のなかに「体系化」させ、納得・格納して自己完結させるようになってきた(もちろん表現として脚色することはあるけれども)。

そして、今やそれを「哀しい」以外の色々な感覚にも置き換えられるように、その適用範囲を拡げるべく日夜努力を心がけているところである。

当然、僕の心のうちには狂犬の名に相応しい激情めいたものも沢山あって日頃ふつふつと煮えたぎっているのだが、箱根の山は天下の険のごとき分析力(客観)に護られて、外見は天下の名山であるところの富士の山のように泰然自然としているという状況が醸し出されているのである。
これが世にいわれる大人の姿である。

このトライアングルは三竦みのように成り立っている精神安定ピラミッドであり、いずれが増長してもダメだし、かといってどれが欠けてもダメであるようだ。

しかして、この僕の脳内作業はどこかしら何かに似ていると思っていた。
頭の中でずっと引っかかっていたのである。

それで最近「○に届け」という某アニメを観なおしてみたところ、ある気づきがあった。
どうやら先のトライアングルに対する僕の考察は、少女漫画的なアプローチと近しかったことに思い至ったのである。
原作を読んでいないのでアレだが、その手法とは端的に言ってしまって「感情をありのまま受け容れて見つめ、それをあれこれと解釈する」という部分についての手法であり、僕の気づいたそれは少女漫画的というよりむしろ女性的な感性についてを指すかもしれない。

特に「受け容れた感情を見つめる」という所為が男性的な要素ではない気がする。
男性は大概の場合、プライドと衆目がデフォルトで標準装備されていて外せないので、そもそも無自覚であろうとしても「ありのまま」は受け容れがたい。
まして大人になると装備品の重量が次第に重くなっていくので、大体の感情に対してはどうしても鈍感になりがちで、襲来する感情にも経験則と慣れで対応するから、いちいち再考なぞはしない(僕はそういう無頓着さは嫌いである)。

もちろん人間の生活は恋愛漫画のように、あんなにご都合主義でうまくまとまっていくものではないし、少女漫画の入り口は往々にして「恋愛」ばかりだけれども、それでも感情の抽出方法や、その感情に対する心の流れ、思考の動かし方の表現はとても端整丁寧で、わかりやすく整頓されており、豊かだなあと思う。

僕は大人君なので、主人公二人の言動や演出をどうにも生温かい目で見てしまうが、それでも断然悪くない。酒でも呷りながら観たらきっと泣いてしまう。

僕は今まで自分の創作については、どちらかというと高校の教科書資料集に載っているような「純文学」然としたものから影響を受けているのだと自分で勝手に思っていたが、やっぱりそうばかりではない。最近は頓にそれを感じる。

当たり前だが、色々な経験や情報、創作物から影響を受けている。
ときどき、それらが僕個人の基質の中でお互いに気づきあって、それぞれの表現の奥と奥とで結びついて相関していくのがわかるときがある。
まるでお互いに関係していなかった2つの事象が自分の中で1つに連なっていくような感覚で、これは内面的に豊かになったような気持ちがして心地良い。
何かから影響を受けることの喜びとはここに極まる。

つまり、要約すると僕は「○に届け」が好きだという話。

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三月を歩く

毎年この時期になると人の死について考える。
仲の良かった後輩が亡くなった季節だからだ。
別にわざわざ思い出すつもりはないんだけど、なんとなく毎年思い出してしまうからただ漫然と考えているだけである。
今年もふとお呼ばれした気がして、散歩がてら墓参りに行ってきた。

今年はもう線香は上げずにおいた。
個人的に線香には馴染みがない。
なにか違う気がして墓石も洗わなかった。
それなりに明るい色の花を買ってきてそれだけ墓前に添えた。

お墓に着くまでは、頭の中で色々考えていてああ言おうこう言おうと決めていたことがあったが、結局それはお墓の前では何にも言えなかった。
相変わらず墓前の前に立つと心が落ち着かなくなって、無性にひねくれてしまうのである。

久しぶり元気か、最近はああでこうなんだよ、じゃあまた来るわ程度のつまらない世間話みたいなことをサーっと心で念じて、軽く手を合わせただけである。

さすがに素っ気ないなと思い直して、何か付け加えようとしたら、妙にあたふたしてしまって、近況報告諸共に軽い愚痴みたいなことをだらだら喋ってしまい、下手な自分語りをしているのに気付いてくだらないと思うなりそれきり嫌になったので、早々に切り上げた。

結局、僕の墓参はそういう感じで正味1分ほどで終わり、我ながら一体何をしに来たのだかよくわからない出来栄えだった。
来る途中で寄った立ち食いそば屋の方がよっぽど長居したものである。

それでも、そのまま家まで歩いて帰っていると、途中からとてもとても寂しい気持ちがやってきた。
自分の心の内は以前とは入れ替わって、昔のことなどすっかり洗い流しているもんだと思っていたが、それこそ心の中の亡霊みたいな感情が掻き集まってこみ上げてくるのである。
なんだか頼りないような、懐かしいような感情でもあったけれども、それは本当の感じがした。
そういう寂しい感情に誘われて思い出すことなどもあり、生前にもう少し遣り様があったんじゃないかなどとも思った。

そして、先ほどお墓の前で無自覚に言葉を尽くそう尽くそうとしていた自分が馬鹿のようであった。
向こうだって久しぶりに訪れてきた自分に何かを話したかったかもしれないからである。

昔はそれこそ河原の土手でも歩きながら、そいつの話を黙ってウンウン聞いて最後にわかったようなことを得意げにアドバイスしたものだったが、そんなふうに僕は話を聞きに行くくらいの心持ちで行けばよかったのである。

それから僕はもう少し歩いて、それで、僕はこれくらいの距離の方がちょうど良いのだと思い直した。
というのも、葬式や墓前では気持ちが落ち着かなくて、こういう寂しいと思う感情はなかなか起こらなかったから、今日久しぶりに墓参りをして、その帰り道で自分一人になってよちよち歩いているときになって、ようやく初めてその人の事を素直に感じることができた気がしたからである。
それは良いことだった。
総じて、諸々これくらいの距離が生まれると、ようやく少しは人のことを思いやれるような気がする。
それで多少は涙も流れそうになる。
いやいやこれでは結局まったくダメなんだけれども。

そんなことをつらつら考えていたら感情も一段落してくれて、スッと落ち着いた。

カレーとか

神保町でカレーを食べながらジョジョリオンの6巻を読んでいると、隣の席に座っていたOL2人組がナポリタンを食べながらシモヤマ課長の悪口を言っていた。

テーブルが近い店だとよくあることだが、そのうちなんだか自分も一緒に会話に参加しているような気持ちになってきた。
またOLのうちの一人が江戸っ子のようにとても歯切れ良く悪口を言うものだから、悪口言われているシモヤマ課長がだらしないやら気の毒やらで、最終的には本当に課長には管理職としてしっかりして頂かなければならないと憤然と燃えてきたのであった。

繁忙期に親父ギャグなど披露している場合ではない。あなたの部下は陰で失笑しています。
シモヤマ課長はカウボーイブーツなど履いて出社すべきではなく、早く新人の制服を発注すべきである。
おいこら常務に言われないと何もできないのか。

隣で聞いていて、僕もそう思った。
悪口を可笑しく語れる人っていうのは良いね。

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バーソーユーデー

夕飯時に、バーソーをユーデーして、我いざ湯切らんと欲す。
台所にて颯爽とバーソーらを水に浸すも、大量の白い湯気がもくもくとあがり、「おわ」などと思って体勢を崩していると、なんぞ図らん、いつの間にかバーソーたちの半分以上は排水口にだらしなく飲み飲まれているのであった。

如何ともし難く、その場に立ち尽くす我。

流し場でクラゲのように足を横たえたバーソーたちのことを、なんて耽美的で美しい姿なのだと頭の中で必死に思い込もうとしてみたがまったくムダであった。
腹が鳴るばかりであった。

バーソーユーデー

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たらこスパゲティ

好きだったものがそうでなくなることはかなしい。
最近はもしかしたらたらこスパゲティが以前よりも好きでなくなったかもしれないということに悩んでいる。
なんだか食べていてもしょっぱく感じて美味しくないのである。
食べられるラー油を掛けた方がよっぽど美味い。

多いときには週4近くで食べていたから、遂に人生のたらこスパゲティ許容量に到達したのかもしれない。

家だとどうしてもパスタソースのたらこ味だかなんだかよくわからない化学調味料で調理してしまうので、それらを止して、ちゃんとしたしかるべきたらこスパゲティ専門店みたいなところでもう一度たらこスパゲティの魅力を再確認しなければと思っている今日この頃である。

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よいしょ史

とある裏道で佇んでいると、目の前のゴミ捨て場に主婦がやってきて、片手で持ったゴミ袋をポリバケツまで「よいしょ」と云ってから持ち上げた。

何気無く呟いたその一言ではある。
しかして、日本人は一体いつから「よいしょ」などと云うようになったのか。

この「よいしょ」なる掛け声は、初めて日本に来た外国人にとって興味深い光景の一つとされている。

本来は物を持ち上げる時などに「せーの」的に用いていた言葉だと思うが、僕が最近見かけた中では、パソコンのマウスを操る時にも「よいしょ」とわざわざ云う人がおり、そういう意味でだいたい「なるほどですね」くらいの謎さ加減を持っている言葉である。

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ロックだねえ

昔、大学生の時分などには「ロックだねえ」と口癖のように言っていた。
よくある学生の内々の流行り言葉である。
僕は今までもだいたい音楽が好きな人たちの周りにいたから、こういう音楽にちなんだ言い回しをする人が多かった。

今聞くと少し軽薄に感じるし、それぞれのローカルルールが多いタームなので用法に違和感があったりもするが、こういった言葉遣いには案外侮れないところがあって、どうしたものか未だにふとしたときに出てしまうことがある。

そこで今日は我々のローカルルールであったところのロックだねえを解説したいと思う。

「ロックだねえ」の使い方は、その他多くの日本語表現と同じで、勝手がわかればとても簡単である。

もし目の前のお酒をぐっと一気に飲み干すような人があったら、それを見て感嘆したふうにロックだねえ、と云えば良い。
他には、楽器屋でふらりとギターを手に取ったりなどして「これは良いギターだねえ、絶対欲しいねえ」などと言っている人がそのまま頭金なしの18回ローンで購入したときにも、おおロックだねえ、と云う。
あとは、独りで赤提灯に入ってホッピーとさつま揚げを注文したり、終電なくして東京湾まで散歩に行ったりしたとどこか誇らしげに吹聴する奴がいれば、君はホントにロックだねえ、などと云うようにする。

これはもう、大変に便利な言葉なのである。

使い分け方としては、ロックだねえ、とおおロックだねえ、とホントにロックだねえの3つがわかっていれば大丈夫である。
ロックだねえ、は特に感想がなかったとき、おおロックだねえ、は何と無く心意気が伝わってきたとき、ホントにロックだねえ、はなんだか面倒くさいときに使うようにすれば良い。

さあみんなも明日からロックだねえ、を使ってみよう!

どっちでも良い話

後で見直してみるというのは大変に大事なことである。

テストも見直しが大事である。
仕事もそうである。
人間関係もそうかもしれない。
人生はどうか知らない。

創作はきっとこの中で云うと、見直しが大事であるかもしれないに属する。

僕の場合、真夜中にトゥーマッチな情熱を筆に込めて書き殴った歌詞は大概酷いが、それに劣らず朝一で寝起きの動物的衝動によって録ったリフやリズムも相当に酷い。

これらはどちらも見直しが必要である。

どちらかというと歌詞は朝に、リズムは夜の方が良い気がする。
メロディはどっちでも良い。

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どっちでも良いのである。