三月を歩く

毎年この時期になると人の死について考える。
仲の良かった後輩が亡くなった季節だからだ。
別にわざわざ思い出すつもりはないんだけど、なんとなく毎年思い出してしまうからただ漫然と考えているだけである。
今年もふとお呼ばれした気がして、散歩がてら墓参りに行ってきた。

今年はもう線香は上げずにおいた。
個人的に線香には馴染みがない。
なにか違う気がして墓石も洗わなかった。
それなりに明るい色の花を買ってきてそれだけ墓前に添えた。

お墓に着くまでは、頭の中で色々考えていてああ言おうこう言おうと決めていたことがあったが、結局それはお墓の前では何にも言えなかった。
相変わらず墓前の前に立つと心が落ち着かなくなって、無性にひねくれてしまうのである。

久しぶり元気か、最近はああでこうなんだよ、じゃあまた来るわ程度のつまらない世間話みたいなことをサーっと心で念じて、軽く手を合わせただけである。

さすがに素っ気ないなと思い直して、何か付け加えようとしたら、妙にあたふたしてしまって、近況報告諸共に軽い愚痴みたいなことをだらだら喋ってしまい、下手な自分語りをしているのに気付いてくだらないと思うなりそれきり嫌になったので、早々に切り上げた。

結局、僕の墓参はそういう感じで正味1分ほどで終わり、我ながら一体何をしに来たのだかよくわからない出来栄えだった。
来る途中で寄った立ち食いそば屋の方がよっぽど長居したものである。

それでも、そのまま家まで歩いて帰っていると、途中からとてもとても寂しい気持ちがやってきた。
自分の心の内は以前とは入れ替わって、昔のことなどすっかり洗い流しているもんだと思っていたが、それこそ心の中の亡霊みたいな感情が掻き集まってこみ上げてくるのである。
なんだか頼りないような、懐かしいような感情でもあったけれども、それは本当の感じがした。
そういう寂しい感情に誘われて思い出すことなどもあり、生前にもう少し遣り様があったんじゃないかなどとも思った。

そして、先ほどお墓の前で無自覚に言葉を尽くそう尽くそうとしていた自分が馬鹿のようであった。
向こうだって久しぶりに訪れてきた自分に何かを話したかったかもしれないからである。

昔はそれこそ河原の土手でも歩きながら、そいつの話を黙ってウンウン聞いて最後にわかったようなことを得意げにアドバイスしたものだったが、そんなふうに僕は話を聞きに行くくらいの心持ちで行けばよかったのである。

それから僕はもう少し歩いて、それで、僕はこれくらいの距離の方がちょうど良いのだと思い直した。
というのも、葬式や墓前では気持ちが落ち着かなくて、こういう寂しいと思う感情はなかなか起こらなかったから、今日久しぶりに墓参りをして、その帰り道で自分一人になってよちよち歩いているときになって、ようやく初めてその人の事を素直に感じることができた気がしたからである。
それは良いことだった。
総じて、諸々これくらいの距離が生まれると、ようやく少しは人のことを思いやれるような気がする。
それで多少は涙も流れそうになる。
いやいやこれでは結局まったくダメなんだけれども。

そんなことをつらつら考えていたら感情も一段落してくれて、スッと落ち着いた。

「三月を歩く」への2件のフィードバック

  1. なんだかおれは墓参りに行くと自分自身が清められるというか有り様を考えさせられるというかなんか心が落ち着きます。
    結局は故人を偲ぶのではなく生きている自分の為なのか、と思いながらも。

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