夜のジャズ

(谷川俊太郎の同名詩より引用)

太郎はめくら 夜だから
花子もめくら 夜だから
何も見えない 触るだけ

太郎は触る 花子も触る
とてもいきのいいお魚 とても新しい貝

とてもすごい嵐 とても揺れる舟
とても真っ黒い夜 とてもとても
とってもさ

朝になれば小鳥が止まる
朝になれば青空
だけど今はまだ夜だから

太郎はめくら 夜だから
花子もめくら
何も見えない

とても真っ黒い夜 とてもとても
とってもさ

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minimals「夜のジャズ」(live)

この曲は確か2009年春頃にできたと思う。
前回の「みんなわかってもらいたい」よりもさらに古い。

なぜ覚えているかというとこの曲ができたとき、僕は「この曲は一人ではうまく再現できないけどなんだか面白いものができた。バンドでしか表現できないものができたからバンドでやろう」と思ったからである。
僕はそれ以前にも散発的にギターの弾き語りをやったりすることはあったけれど、パーマネントなバンドを組んだ経験は一度もなかった。
この曲を作った後に新しく結成したminimalsは、僕が組んだ初めてのパーマネントなバンドである(現メンバーは僕と村尾の二人だけだけど)。

自分でいうのもなんだが、この曲はとにかく他の曲と比べても色々風変わりなところが多くて、初めて聴いた人は取り留めなく聴こえて戸惑うかもしれない。
当時の「普通じゃないものを作ってやろう、だけどわかりやすく単純なもので」というひねくれた自分のものの見方が見えてくるようだ。

この頃の僕はきっとリトル・フィート、ザ・バンド、ライ・クーダーあたりをよく聴いていたから、その反動のせいかコードがあれこれドラマチックに沢山入れ替わってような展開のポップスの華やかさが苦手になっており、コード感の少ないものが好きだった(この辺は「みんなわかってもらいたい」の頃にも通じていく)。

この曲の大まかな展開自体はよくある「イントロ→Aメロ→サビ→間奏→Aメロ→サビ→アウトロ」である。
ギターのメインリフはコンパクトでリズミックであり、わざとらしくなく飽きがこない。
ベースは朗々と歌い踊るようだ。
ドラムは手数が多く、大袈裟で表情豊かである。
サビも唄があるんだかないんだかスキャットなんだかもよくわからない。
この曲では全編に渡って唄もリズムも演奏も渾然一体となっており、そのまま大きな塊で転がり滑り落ちていくように、なんだかよくわからない熱量を持ったまま情景が移ろっていく。

サビの箇所を除き、その殆どをDのワンコードで押し切っているところも特徴的だ。
そのサウンドはバンドの名前にも冠したとおり、ひたすら細やかでミニマルである。

ドラムスの村尾や当時のベーシストとのリハーサルでは「この曲では一つのうねりを表現しろ、この曲はそれだけだ」「中間部は波に呑まれるように」などというアバウト全開な指示が日夜平然と飛び交っていたのも良い思い出である。
僕はバンドで新しい表現ができるんじゃないかと夢中だったのである。

さて、この曲の歌詞は谷川俊太郎の同名詩「夜のジャズ」の一部を抜粋して充ててある。
谷川俊太郎については元々中学生のときに合唱コンクールで聴いた「じゃあね」「春に」の詩に惹かれてから今に渡ってずっとファンであり、長らくその言葉の持つ直裁さやしなやかさやテンポにしびれてきた。

この曲を聴いた人から「『めくら』なんて歌詞だと放送には流せないですね」と他意なく言われたこともあるが、そのとき初めてああそうかと思った。
それまでそんなことに気付きもしなかったが、でもそれもそういえばそうだなと思ったくらいである。
僕に言わせればここで語られている「めくら」はとても美しくて差別表現などとは少しも感じないし、むしろそこに悪意を感じられるほうが逆に感じやすすぎるのではないかと思ってしまう方なので、まあ人それぞれの価値観である(そんなことより別の理由でこの記事は諸々まずいのではないかと思っている)。

ちなみに僕はこの時期、この曲以外にも谷川俊太郎の詩を自分の楽曲に取り込もうとトライしている。その殆どはボツになってしまったが、いつか披露できるときがあるといい。

みんなわかってもらいたい

詞:谷口智也

誰だって云いたいことは
云いたいようには云えるさ
連中の陰に立って
周りを見回して歩くよ

大概はあんたになんか
慰められたくもないや
大概はあんたになんか
慰められたくもないね

こんなもんだって決めてしまえば
そういうことになってしまうんだろう
内臓の中に住んでやがる黒い虫が
白い歯を出して笑ってる
笑ってるんだぜ

青色のキャンバスに
白を塗りたくった
これは油絵だよ、きみ
油絵だよ、きみ

みんなわかってもらいたい
みんなわかってもらいたい
みんなわかってもらいたい
みんなわかってもらいたい
みんなわかってもらいたいんだ

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minimals「みんなわかってもらいたい」

この曲を作っていた頃は確か2010年の秋くらいである。
もうだいぶ古い。
その後のminimalsのすべての楽曲のプロトタイプにあたる曲である。
ギターに12カポを装着して適当にメロディを口づさみ、それを手元のメモ帳の走り書きで充てて唄って、反復に堪えるベースラインを付けたら楽曲の原型が生まれた。

当時の僕は、楽曲の歌詞や構成、コード展開を限りなく少なく排除したシンプルでコンパクトなものをやりたいと思っていて、「ワングルーヴで劇的ではないもの」を試行していた。
ギターロックバンドのウワモノギターのメロディありきのものや、そこから発展したような変拍子性のある音楽には興味が沸かなかったし、歪みの強いディストーションサウンドがあまり好きでもないから、スリーピースでギターを前に出すようなバンドでもないので(そして残念ながらその技量やモチベーションもない)、いかにビートを前に出すかということを考えていたのである。
そういう点で、以前から好きだったニューオリンズやブルーアイドソウルのサウンドにいよいよ傾倒し出した頃の楽曲で、あの感じをうまく自分のバンド内に落とし込めないだろうかと模索していた。
当時はそれが格好良いと思ったし、今もそう思っている。

ちなみにこの曲のレコーディングを終えてから少し経った後、Hall & Oatesの「maneater」を聴いたときには「まさにそれ!」と思った。
他の人がこの2曲を並べて共通性を見出すかどうかはわからないけど、僕の中では勝手に彼らと同じ創作アプローチをやりたかったのだと深く共鳴する部分があった(特にアレンジについて)。

歌詞については、今振り返ると忌野清志郎の「君が僕を知ってる」とか「わかってもらえるさ」に影響を受けていたのだなあと思う。
後で「あれ?似てるな」と思ったけど、もしかすると知らず知らずのうちに刷り込まれていたのかもしれない。
でもまあ音楽は往々にしてそうやって連なっていくものだと思うし、このよくある普遍的な「わかってもらう」という主題で振り向けられている世界観は清志郎さんのそれとはやっぱり違う(あちらの方がポジティブで潔いと思う)。

当時の僕はどちらというと歌詞の世界観は谷川俊太郎のようにしたくて、全体としてしなやかさや丸みがあるけど、しっかり根付くフレーズを組み込むということが意識にあった。
そうでないと、そもそもリズムに言葉が乗らないし、リズムが強すぎて聴いた後に言葉が何も残らないからである。
リズミックな曲を作るとこれが悩みどころになってくるが、というのも強い言葉を置かないとメロディがリズムに流されてしまうのである。

それで「みんなわかってもらいたい」という強い言葉(当然「みんな」には「全員」と「全部」の含意がある)のアイディアがまず最初にあって、筋書きとしてはそれを歌詞世界の中の「これは油絵だよ、きみ」というフレーズではぐらかしておいてから落着させるというのが僕のねらいだった。
その線で諸々推敲した結果(ここがミソかもしれないけど割愛)として、「あんたになんか慰められたくないね」とか「内臓の中に住んでやがる黒い虫が笑っている」という表現につながっていく。
そして結果的に「まっすぐひねくれた」雰囲気を醸したものを表現することができた。

ここで出てくる「連中」って誰ですかと聞かれたことがあったけど、正直作った本人もよくわからない。そもそも最初は「連中」じゃなくて「電柱」だったから、完全な語呂である。
(歌詞についての関連記事:歌詞についての四方山話

ビデオにあるレコーディングの音源ではせーので録ったバンドのオケに加えて、さらにハモンドっぽいオルガンとリードギター1本をオーバーダビングした。
サビではオクターブ下のボーカルがダブリングされている。
いずれも楽曲の基本ラインを補強するために彩りを添えたかっただけなので、聴く人によっては気付かないくらいの効果に留めてある。
使用したトラックはそれだけである。

エンジニアは瀧口和徳氏で、オケとボーカル録音をアナログテープで行い、それをプロツール上にてミックスした(氏はいまや数少ないアナログ録音経験豊富なエンジニアである)。アナログテープで録音をやりたかったのはそれをやったことがなかったので単純に興味があったことと、音質としてアナログ独特の詰まったウォームなサウンドが好きだったからである。
加えて本作の音圧は僕の意向で耳障りにならないよう低めに設定されていることなどもあり、今聴くと完全に時代と逆行しており、楽曲コンセプトも相まって大変にシュミシュミした音源になっている気がする。

また本ビデオの撮影は当時美大生のアートチームが行い、監修を次廣靖氏に行って頂いた(詳細はyoutubeのクレジット参照)。
企画の段階で、シンプルでコンパクトなものをというオーダーを出していたこともあって、背景はただただ白く、演奏を風景と慎ましく淡々と撮り、そこに影を使った演出が施されている。派手さは皆無で、今観るとまるで独特の静けさがあり、古武士のようなビデオである。
映像に映っている当時のベーシストは木村研一。

ライブ終えたり写真撮ったり

昨日のライブにご来場頂きました皆様どうもありがとうございました!

昨日は歴戦の友であるマンダコウヘー氏もライブ写真を撮りにきてくれて、ついでにそのまま東新宿の裏道で5月の弾き語りワンマン用のフォトセッションをした。
彼と二人きりが会うのが久しぶりでなんだかはしゃいだのでした。
撮影した写真は近日アップしますので、どうぞお楽しみに。

また、5月弾き語りワンマンに向けての意もあり、これからminimalsの楽曲の歌詞を毎日一つずつアップしてみようかと思います。
音源がある場合にはなるべくそのリンクも付けてみて、偉そうですが解説みたいなのもちょこっと添えてみたいと思います。

とりあえず本日の夜は「みんなわかってもらいたい」の歌詞を20時頃にアップします。
よかったらまた後でチェケラしてみて下さいね。

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生活感など

生活感がない、ご飯などちゃんと食べているんですかと人からよく言われる。

この問いかけは僕に限らず、恐らく大多数のミュージシャンが常々言われていることだと思うが、心配はご無用である。
なぜなら大体のミュージシャンは世間一般の人のそれよりも人一倍謙虚に、社会の陰に隠れながら大変に慎ましく生活しているものである。

皆さんもご飯などちゃんと食べているのである。
みんな掃除もするし洗濯もする。
みんな食器も洗うし換気扇も回す。
みんな節約もするしアイスも買うのである。

さて、僕もそのような生活感を感じさせない人間を代表して、ちゃんと生活しているというその一端を皆様に証明したいと思う。

下記の写真を見よ!

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まるで古代文明から発掘された青銅器のように見えるが、これは自宅の洗濯槽である。

世の中には洗濯槽用洗剤という便利なものが発売されており、僕も興味本位で買ってみて早速洗濯機にかましてみたところ、洗濯槽はまるで新品のようにツルピカになってしまった。
そして、そのあまりのツルピカ具合に衝撃を受けて思わずiPhoneで撮ってしまったというのが、このショットである。
これは生活感がなければできない所作である。

さて、そんなことよりも明日はminimalsのライブがあります。
開演直前までチケット取り置きの受付をしておりますので、みなさま明日は手が空きましたらば是非奮ってご参加下さい!ということをお伝えしたい。

ご予約はinfo@minimals.jpまで。
「取り置き希望」の旨とお名前をお知らせ下さいませ。

【4月28日(月) 】
新宿紅布
start/19:00 / adv.¥2000(+1d)
w/ユームラウト、挫・人間、the coopeez

minimalsはちょっと早めの19時からの演奏となります。
ベースは今回も引き続き塩澤由希子が務めます。
それではお待ちしております!

兄とその結婚

先週末は兄の結婚式があり、久しぶりにスーツを着て池袋の結婚式場まで行ってきた。
たまたま母校の前が会場で、通学路を懐かしい気持ちで歩いた。

僕の兄は小学校時代の同級生と結婚したので、初恋が叶ったということだ。
お嫁さんには弟がおり、その弟と僕は幼稚園・小学校時代を共に過ごした友人同士でもある。
つまり、僕は小学生のときの友達と義理の兄弟関係となった。
人生はわからないものだ。

兄の奥さんは笑顔が素敵で、いつもにこやかである。
兄に嫁ぐほど大きな愛を持った方なので、博愛主義者だと確信している。
今年初めて兄から紹介を受けたときもまるで昔からの知り合いのようであった(事実そうなのだけども)。

そんなわけで、どことなく同窓会のような雰囲気が漂う結婚式の中で、久しぶりに会った兄が僕の知らない粛々とした面構えをしていたのが印象的だった。

そして披露宴では、一転して柔和な晴れがましい表情であった。
これもまた今までにあまり見たことがない顔であった。

兄には真っ白い兎のようなイメージがある。
優しく真っ直ぐで、自分の正しくあろうとすることに対してとても真面目な人間である。
頑なと言ってもよいかもしれない。
そしてそれがどことなくか弱く、可愛らしい部分でもある。

披露宴の最後の挨拶でそんな兄が泣き出したときには、僕も思わずうるっときた。
我が兄のことながら、大変に誠実な人の涙を見た気がしたのである。

僕は自分のことを誠実な人間だとは思わないが、多少なり彼の生き方を見て育ってきたので、誠実な人に対する敬意ならば少しくらいは払えるようになってきたのかもしれない。
そういう気分だった。

僕が小学生の頃に兄が弾いていたピアノの音色は今でもよく覚えている。
とても線の細い、軽やかで繊細なタッチのピアノであった。
そして彼はそういうピアノを流麗に、丸め込むようにして丁寧に弾くのであった。
それでメロディに嫌味がなくて耳にスッと入ってくる。
僕からするとそれはまるでメロディがメロディではないかのようであった。

そういうものは今までだってずっとそうで、これからだってきっと変わらないだろう。
だからいくら形が違っても信じられるのである。
そう独り言ちるほど良い日だった。

鯖の味噌煮と巨人軍

昨日の話。

夕方から髪を切りに行った結果、普段よく行く食堂がすでに営業を終えていた。

それで近場にあった昔ながらの定食屋に入ったところ、店の中央に大画面のテレビが据えられており、そこには8回表の巨人対ヤクルトの野球中継が映っていた。
5-3で巨人が2点リードしている。
店の壁には黒帽を被った選手の集合写真をはじめ、黒帽を被ったそれぞれがバッドを振ったりボールを投げたりベースの周りを走り回ったりしているポスターが所狭しと貼ってある。
店内には5-6人の常連客がじっとテレビを見つめ、時折り歓声を上げながら瓶ビール片手に一杯やっている。どうやらこれはきっといわゆる巨人ファンである。

「いいとこにきた、今巨人軍やっているからね」
おかみさんが得したねという感じで言うので、思わず「そうですか良かった」と応えたものの、そもそも僕はまったく野球に興味がないのであった。
セリーグとパリーグの区別もつかない。ソーセージの名前みたいだと思っている。

だが、こんな機会なので巨人軍の応援でもしてみようと思い、周りと一緒になってテレビに向かって「ああ!」とか「ううん!」とか言ってみたが、どうにも声を出すタイミングや見所がわからない。
僕は野球をどうやって観たらいいのかわからず、ほんの少しも面白くないのである。

しかも、僕がこの店に入ってきてからというもの巨人軍の雲行きはどんどん怪しくなっていくのであった。
2点優勢の局面で、ようやくリズムを生みかけていた巨人軍の攻撃は、ちょうど僕が鯖の味噌煮をオーダーした頃にスリーアウトチェンジとなってしまい、料理を待つあいだの巨人守備の8回裏では、投手山口の失投により、あっという間に無死満塁のごとき情勢となってしまった。
そして、僕のサバの味噌煮が到着する頃にはそのままヤクルトに追加点が入り、時を待たず試合は同点となり、ヤクルトに一挙逆転のムードが濃厚に漂う一方、巨人はどんどん窮地に追い込まれていった。
まるで僕がこの定食屋に入ったことによって、巨人軍のツキが落ちたようであった。

遂には、僕が鯖の味噌煮を食べ終わるより早くヤクルトに逆転され、店内の巨人ファンたちはむすっと押し黙り、くだらない冗談も言わなくなってしまった(僕からすると、その様子こそが冗談のようであった)。

(ほらみろ、よくわかんないお前なんかが店に入って来たせいで、我が栄光の伝統を誇る巨人軍は…)

かような重くるしい空気を感じた僕は、やがて巨人ファンの皆さんとテレビを見るのを止め、テーブルの脇に置いてあった選手名鑑2014を読むことにし、特に審判団の顔ぶれと経歴を眺め、この世の中には審判学校なんていうのがあるんだなあと思いながら食べ終わり、食べ終わるや否やさっと脱兎のごとく立ち去ったのであった。

その後どうやら巨人軍は9回表に大逆転。
疫病神はやはり去ったのである。

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傷心のわたしに優しく微笑むブル連隊長
黒帽を被っていなくてよかった

夕方くらいの町

町はちょうど良い気温である。
夕方、日が暮れないくらいに家を出て、傍の道を歩いていると、パンケーキを焼く甘い匂いが立ち込めていた。

こんな住宅街のいったいどこでパンケーキを焼いているのだろう、もしかしたら近所に老舗の洋菓子屋などがあったのを今までずっと見落としていたかもしれぬと思って、蜂蜜に誘われる熊のごとくふらふらと付近の横丁を出たり入ったりしていると、やがて知らず知らずのうちに、造りの古い、昔ながらの銭湯の前に出た。

すると今度はどこからともなく大変に澄んだ笛の音が聞こえてくる。
とは云っても、僕の住んでいる町はほどほどに下町であるし、夏祭りに向けた町内会の集まりかなんかで鼓笛を練習するくらいのことはあるだろうから特段不思議ではない。

やれいつたいどこで笛を吹いているのだ、冷やかしに見に行つてやらうとのらくろ(地元名物)のように思いながら、立ち止まって耳を澄ます。

すると、ちょうど目の前の銭湯から1人の胡麻塩頭をした老人が出てくるなり、絵も言われぬ不思議な旋律の口笛を吹きつつ自転車に乗って、さぁーっと立ち去っていった。

僕が笛の音だと思ったのは、実にこの老人の口笛であった(今考えると落語の出囃子のようなフレーズを口ずさんでいたのかもしれない)。

この老人は大変に口笛が巧かった。
これが僕の生涯で一番口笛にびっくりしたときの話である。

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しょぼくれた紅い花を見下ろす黄色い花たち
なぜだかファンタスティック・プラネットを思い出した

相思相愛パターン

自分のアイフォンに残っていた過去の日付のふたつのメモ書き。

どうやらこのふたつのメモ書きには、自分にしかわからない何かしらの関連性があったようで、いずれひとつにまとめた上で結論を出したかったようだ。
しかし途中で失敗に気付いて挫折し、うやむやになってしまっている形跡がある。

そして長い時の荒波の中で、僕はこの文章の結論なるものをすっかり忘れ切ってしまった。

はたして、僕はこのふたつをどのように結びつけるつもりだったのか。
今日はひとつ、当ブログを閲覧頂いている皆様にも是非ご協力願ってその言わんとするところ、「ナゾ」を解明して頂きたい。

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【メモ書き1】
ときどき、メガネにその顔面を支配されている人がいる。
メガネを外すと「あら」と思ってしまう、そんな人が周りにいる又はそんな人がふと頭に思い浮かんだなら、その思い浮かばれた誰かはメガネに支配されていると断定してよい(気軽に断定してよい)。

果たしてその人が稀代のメガネ使い顔なのか、はたまたメガネがその人の顔面を乗っ取り、メガネの象徴化を進めているのか。この判別はむずかしい。
一説には、長年メガネを掛けているとその人の顔面の骨格と筋肉がメガネに合わせて変化していくものらしい(谷口説)。
つまり、その人がそれなりのメガネ使い顔であった場合、メガネの侵食を受けるのと同時に、自らも逆にメガネを受けていくというパターン(相思相愛パターン)もある。
いずれにせよ、これは大変に由々しきことである。
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【メモ書き2】
本屋の匂いがダメだと云う人がいる。
なぜだかわからないが印刷物のインクの匂いに触発されて、もよおしてしまうらしい。
この手の人は一定数存在する。

一方、トイレの片隅に本がうず高く積まれている人がいる。
トイレのスペースが閉鎖的で落ち着くというので、そこに居座って読書をするという。
この手の人も一定数存在するように思う。

それではインクの匂いが充満したトイレの場合はどうか。
インクの匂いが無問題な人、トイレの空間が落ち着く人はもちろん大丈夫である。
「あら、本屋さんの匂いがするおトイレなのね」くらいなものである。
別にインクの匂いが苦手で入りづらくとも、トイレなのでもよおしても当然結構である。

また、パニック障害などでトイレ自体が閉鎖空間のため苦手という人もいるだろう(きっと)。
逆に、そういう人の中にもインクの匂いが好きだという人は一定数いるはずだから、トイレの空間は落ち着かずナーバスになるけれどもインクの匂いが好きだから大丈夫というパターンも考えられる。

さらにそのうち、トイレは閉鎖空間で落ち着かないから一刻も早く出たいはずなんだけれども、インクの匂いが好きで出られず、そしてその匂いがトイレに籠っているから逆によい、ますます出ないということもあるかもしれない。
もはや出たいんだが出たくないんだがよくわからないのであるが、この場合だとソワソワしながらもとりあえずトイレを出ることはないようである。

または、トイレの閉鎖空間が落ち着くのでついつい居座ってしまうけれども、インクの匂いは苦手だからどうしてももよおしてしまう、でもトイレだから逆によい、という可能性も生み出されるだろう。
これも本当に落ち着いているんだが落ち着いていないんだかどうだかよくわからないんだけども、結果的にトイレにこもり続け、ソワソワし続ける状態には変わりがない。しかし、これではただのソワソワすることにエキゾチックなものを感じている奇特な人である。

この「逆によい」領域の可能性たるや恐ろしい。
つまり、この話にも「逆にメガネを受けていく」と通じるような奇妙な相思相愛パターンがあるのだ。
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以上でメモ書きは終わっている。

この文章がもし完成されていればそれはヒト科の深淵を覗くような超大作となったことは間違いないであろう。
このかすったんだかかすっていないんだかよくわからない文章に対して、残念な印象を抱く人間が一定数存在することは承知している。

ただ、それでも文章の完成が成し遂げられなかったことだけが悔やまれる。
また、別段完成させるつもりがなかったことも改めて悔やまれるのである。

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↑写真はまるでキングクリムゾンのジャケットのような迫力を魅せるガリガリ君ナポリタン味。
右目の中の「?」がその味とこの文章を物語っている。