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宇宙線が視ている

詞:谷口智也

君は今日もくたびれたら 窓辺に凭れて
ぼんやりした気分でいる

夕暮れの先 薄闇に光るテールランプが
段々と近づいてくるような 心地好いサウンドに変わって

黄色く満たすような その鮮やかに
心を奪われている
エイトビートを効かすようさ その鮮やかは
君を連れてってしまいそうなんだ

皆が君のやりたいことをやってしまうから
それで君は一体何をしようかって思っているんだ

夕暮れの中 暗がりに光る君の心は
誰かの気持ちにフィットして どこかでキャッチされるんだ

きっと君は言うだろうよ 信じられないって
瞳を輝かせて
エイトビートを効かすようさ 鮮やかは
僕も連れてってくれたらいいんだ

きっと君は言うだろうよ 信じられないって
瞳を奪われながら
エイトビートを効かすように その鮮やかは
僕ら連れてってくれたらいいんだ

連れてってくれたらいいんだ
連れてってくれたらいいよね
*******

minimals「宇宙線が視ている」(live)

この曲は大学生のときに作ったからminimalsの全楽曲の中でも一番古い。
現在「恋をしようよジェニーズ」のギターボーカルをしている桜井君とはその当時大学のサークルで一緒にバンドをやっていて、よく集ってなんとなく2人で音合わせをしたりしていた。
そんなあるときに「メロディがあってまだ歌詞は出来てないんだけど」みたいなことを言いながらこの曲のサビのメロディを唄ったら「これはいいメロディだ」と褒めてくれたので、それで俄然やる気を出して書き上げた記憶がある。
それがなかったら今頃お蔵入りしていたかもしれない。

だけどサビのメロディだけが先にできてそれ以外何もなかったから、他の部分の構成も歌詞もなかなか決まらなかった。
それこそAメロから何十回も書き直していて、最初の頃書いた歌詞もメロディも現在のものとはかけ離れている。

僕は高校生のときにギターを手にしてからすぐにオリジナルの楽曲を作り始めたけど、歌詞について正面から向き合ったことはなかった。
歌ったときの語感でなんとなくそれっぽいフレーズを並べたりして出来上がりにしていた気がする。

おそらくそういう作詞法もあるにはあるのかもしれないけど、きっとそれだけではいけない。
この当時に僕が作詞した「宇宙線が視ている」と「団地のゲーム」という楽曲は、そういう点で初めて「作品」としてコンセプシャルな意識のもとに作ろうと思って「作った」歌詞である。
大変に難産したお陰で完成したときはとても嬉しかった(「粘土細工で良い造形物を作れたときのように」嬉しかったのをすごく覚えている)。

最終的に歌詞は、井伏鱒二の短編「屋根の上のサワン」の世界観(その頃とても好きだった作品で、その油絵の具のような空気や匂い、暗さみたいなもの)を目指したが、結果的にそれを感じた人は少ないと思う(僕が今見ても全然似つかない)。
結局それだけではうまくいかなくて、当時の僕がぼんやり思っていたことを色々混ぜ合わせることで落着したからである。

尚、この「宇宙線が視ている」というタイトルに特に意味はなくて、その頃の朝日新聞の夕刊記事の見出しに「宇宙線がみている」と書かれた学芸記事がでかでかと載っていて、それがとても印象に残っていたのでそのまま曲のタイトルにした。

この曲を好きだと言ってくれる人はとても多くて、苦労した甲斐もあって単純にすごく嬉しい。できればこれからも好きでいてもらいたいと思う。

ソリッドシチュエーション

詞:谷口智也

遠くて顔は見えないくらいだった
ちょうどそれでよかった
見るも見ないも同じくらいだったのだ

何をしようか どこへ行こうか
いつもの通り 思ったとおり

夢かどこかで出会っていたような気持ちになった
「ちょっと待ってくれ」っていう声がして
ちょっと待ってみるくらいの

君がいたのさ 隣を過ぎて
行き交うように 笑ったように

いつもの通り 思ったとおりに

(駅へ向かってゆっくり歩く
ここで行くよまたね 手を振って)

ウソでもホントでもどうでもいいよ

何をしようか
どこへ行こうか
いつもの通り
思ったとおり

覚悟はいいかい
涙は拭いて
いつもの通り
思ったとおりに

遠くて顔は見えないくらいだった
*******

古い曲ばかり解説しているので、たまには少し新しいものを取り上げます。

「ソリッドシチュエーション」という言葉は「状況設定もの」のホラー映画のジャンルを指すらしい。ソウとかキューブとかその辺の作品がソリッドシチュエーションものである。

僕がこの曲を作っていたのは2012年の秋くらいだったと思うけど、そのときはそういう言葉があることを知らなかったから自分の勝手な造語をタイトルにしたつもりだった。
ソリッドは「手堅い」「大事」「節目」というような意味合いで、それに「状況」や「境遇」を意味するシチュエーションを足して、「大事な局面」から「重要な何かが交差する場面」くらいの振り幅がある言葉だとイメージしている。

人の一生を何かで例えるとき、よくある説だけど僕は断然「旅」という例えがしっくり来る。
人の生き方や目的はそれぞれに違うし、誰の魂がどこから発生して、どこへ向かっているかなんてことを分かっている人はいない。
きっとみんなそれぞれに発生して、それぞれ勝手に歩いているんだろうと思う。
誰かの出発点は誰かのゴールで、誰かのゴールはまた別の誰かの出発点かもしれない。
それでみんなそれぞれ進んで、出会って、交差して、またすれ違っていく。

僕は音楽をやっているからかもしれないけど、そういう発想が自分には馴染む。

僕の大好きな井伏鱒二はこう言っている。

この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

なんだか言いたいことを言ってくれているような気がするんだけど、もしかしたら余計わかりづらくなったかもしれない。すいません。

さて、この曲では録音時にオーバーダビングを沢山施している。
特にこの曲では今までと違って、好き勝手に最大限までギターを足すチャレンジをした。
少ないコードとクリーンギターでどこまで楽曲に彩りが添えられるか試したかったのである。
ギターは4本くらいフェイザーっぽいトレモロをかけた空間的なギターを足していて、唄終わりのアウトロではギターのフレーズが絡み合ってフェイドアウトしていくようになっている。

ドラムの音はひたすらコンパクトに、デッドに作った。
ドラムのほとんどの箇所にミュートを施し、ミックスでもほぼノーリバーブ、さらにアナログテープのフィルターを掛けるなど徹底してある。

僕はこの曲ができたので、今まで自分の宿題みたいにずっとやってきた少ないコードの中であれこれ頑張るような曲は大体もうこれでいいのかなとそう思った、そういう曲である。

夜はオーロラ(子どもたちへ)

詞:谷口智也

工場の陰から汚れた犬が
ちっぽけな夢を拾い出してきた

君は何か勘違いをしているよ
君は何か勘違いをしているよ

煤けた闇は僕の清潔なシャツを
汚して 汚してしまった

街は今日もざわめきを忘れないぜ
夜はオーロラ きらきらぴかぴか

おおオーロラ
おおオーロラ

ささやく傍からこぼれてゆく灯火が
ひっそり息をついた 段々夜になる

街は今日もざわめきを忘れないぜ
夜はオーロラ きらきらぴかぴか
*******

この演奏は2010年当時だったかと思う。
深夜のスタジオで一発録りをした記憶があるが定かではない。
楽曲としてはメロウなトーンの静かな息遣いをイメージした曲である。
バンドとして音数を削る試みをし始めた頃で、もう音を埋めることは考えていない。
いかにスカスカにしても楽曲が持つかということをひたすら考えていた気がする。

タイトルは「夜はオーロラ」、副題に「子どもたちへ」が入る。
この曲は「子どもたち」にあてた童謡のつもりだったので、それを副題とした。

僕の作る曲には「夜」という単語が多い。
タイトルでいったら半分くらい「夜」が入る。
本当は朝の方が好きだけど、夜には色々な表情やバリエーションがある気がしていて、「本当の自分になれる時間」みたいなイメージもある。

作詞作業は難しくてなかなか完成しないことが多い。
苦心して作るせいか、完成するとその反動で飽きてしまったり嫌になったり一気に思い入れがなくなったりすることがある。
「夜はオーロラ」を書いたとき、本当に良い歌詞が書けたと思った。
そして今でもよくできているなと思える数少ない詞のひとつである。

僕は当時シャガールやクレーの絵が好きでそういう景色を言葉にしたかった。
油絵の具の暖かさや素朴なトーンだったり、淡く情景的であったりするものを想像したのである。
だからそういう意味でもこの曲は「宇宙線が視ている」とか「夜のジャズ」と同じ詞世界にある作品だと思う。
こういう情景的な世界観に好き嫌いはあるとは思うけど、個人的には悪くないと思っている。

夜のジャズ

(谷川俊太郎の同名詩より引用)

太郎はめくら 夜だから
花子もめくら 夜だから
何も見えない 触るだけ

太郎は触る 花子も触る
とてもいきのいいお魚 とても新しい貝

とてもすごい嵐 とても揺れる舟
とても真っ黒い夜 とてもとても
とってもさ

朝になれば小鳥が止まる
朝になれば青空
だけど今はまだ夜だから

太郎はめくら 夜だから
花子もめくら
何も見えない

とても真っ黒い夜 とてもとても
とってもさ

*******

minimals「夜のジャズ」(live)

この曲は確か2009年春頃にできたと思う。
前回の「みんなわかってもらいたい」よりもさらに古い。

なぜ覚えているかというとこの曲ができたとき、僕は「この曲は一人ではうまく再現できないけどなんだか面白いものができた。バンドでしか表現できないものができたからバンドでやろう」と思ったからである。
僕はそれ以前にも散発的にギターの弾き語りをやったりすることはあったけれど、パーマネントなバンドを組んだ経験は一度もなかった。
この曲を作った後に新しく結成したminimalsは、僕が組んだ初めてのパーマネントなバンドである(現メンバーは僕と村尾の二人だけだけど)。

自分でいうのもなんだが、この曲はとにかく他の曲と比べても色々風変わりなところが多くて、初めて聴いた人は取り留めなく聴こえて戸惑うかもしれない。
当時の「普通じゃないものを作ってやろう、だけどわかりやすく単純なもので」というひねくれた自分のものの見方が見えてくるようだ。

この頃の僕はきっとリトル・フィート、ザ・バンド、ライ・クーダーあたりをよく聴いていたから、その反動のせいかコードがあれこれドラマチックに沢山入れ替わってような展開のポップスの華やかさが苦手になっており、コード感の少ないものが好きだった(この辺は「みんなわかってもらいたい」の頃にも通じていく)。

この曲の大まかな展開自体はよくある「イントロ→Aメロ→サビ→間奏→Aメロ→サビ→アウトロ」である。
ギターのメインリフはコンパクトでリズミックであり、わざとらしくなく飽きがこない。
ベースは朗々と歌い踊るようだ。
ドラムは手数が多く、大袈裟で表情豊かである。
サビも唄があるんだかないんだかスキャットなんだかもよくわからない。
この曲では全編に渡って唄もリズムも演奏も渾然一体となっており、そのまま大きな塊で転がり滑り落ちていくように、なんだかよくわからない熱量を持ったまま情景が移ろっていく。

サビの箇所を除き、その殆どをDのワンコードで押し切っているところも特徴的だ。
そのサウンドはバンドの名前にも冠したとおり、ひたすら細やかでミニマルである。

ドラムスの村尾や当時のベーシストとのリハーサルでは「この曲では一つのうねりを表現しろ、この曲はそれだけだ」「中間部は波に呑まれるように」などというアバウト全開な指示が日夜平然と飛び交っていたのも良い思い出である。
僕はバンドで新しい表現ができるんじゃないかと夢中だったのである。

さて、この曲の歌詞は谷川俊太郎の同名詩「夜のジャズ」の一部を抜粋して充ててある。
谷川俊太郎については元々中学生のときに合唱コンクールで聴いた「じゃあね」「春に」の詩に惹かれてから今に渡ってずっとファンであり、長らくその言葉の持つ直裁さやしなやかさやテンポにしびれてきた。

この曲を聴いた人から「『めくら』なんて歌詞だと放送には流せないですね」と他意なく言われたこともあるが、そのとき初めてああそうかと思った。
それまでそんなことに気付きもしなかったが、でもそれもそういえばそうだなと思ったくらいである。
僕に言わせればここで語られている「めくら」はとても美しくて差別表現などとは少しも感じないし、むしろそこに悪意を感じられるほうが逆に感じやすすぎるのではないかと思ってしまう方なので、まあ人それぞれの価値観である(そんなことより別の理由でこの記事は諸々まずいのではないかと思っている)。

ちなみに僕はこの時期、この曲以外にも谷川俊太郎の詩を自分の楽曲に取り込もうとトライしている。その殆どはボツになってしまったが、いつか披露できるときがあるといい。

みんなわかってもらいたい

詞:谷口智也

誰だって云いたいことは
云いたいようには云えるさ
連中の陰に立って
周りを見回して歩くよ

大概はあんたになんか
慰められたくもないや
大概はあんたになんか
慰められたくもないね

こんなもんだって決めてしまえば
そういうことになってしまうんだろう
内臓の中に住んでやがる黒い虫が
白い歯を出して笑ってる
笑ってるんだぜ

青色のキャンバスに
白を塗りたくった
これは油絵だよ、きみ
油絵だよ、きみ

みんなわかってもらいたい
みんなわかってもらいたい
みんなわかってもらいたい
みんなわかってもらいたい
みんなわかってもらいたいんだ

*******

minimals「みんなわかってもらいたい」

この曲を作っていた頃は確か2010年の秋くらいである。
もうだいぶ古い。
その後のminimalsのすべての楽曲のプロトタイプにあたる曲である。
ギターに12カポを装着して適当にメロディを口づさみ、それを手元のメモ帳の走り書きで充てて唄って、反復に堪えるベースラインを付けたら楽曲の原型が生まれた。

当時の僕は、楽曲の歌詞や構成、コード展開を限りなく少なく排除したシンプルでコンパクトなものをやりたいと思っていて、「ワングルーヴで劇的ではないもの」を試行していた。
ギターロックバンドのウワモノギターのメロディありきのものや、そこから発展したような変拍子性のある音楽には興味が沸かなかったし、歪みの強いディストーションサウンドがあまり好きでもないから、スリーピースでギターを前に出すようなバンドでもないので(そして残念ながらその技量やモチベーションもない)、いかにビートを前に出すかということを考えていたのである。
そういう点で、以前から好きだったニューオリンズやブルーアイドソウルのサウンドにいよいよ傾倒し出した頃の楽曲で、あの感じをうまく自分のバンド内に落とし込めないだろうかと模索していた。
当時はそれが格好良いと思ったし、今もそう思っている。

ちなみにこの曲のレコーディングを終えてから少し経った後、Hall & Oatesの「maneater」を聴いたときには「まさにそれ!」と思った。
他の人がこの2曲を並べて共通性を見出すかどうかはわからないけど、僕の中では勝手に彼らと同じ創作アプローチをやりたかったのだと深く共鳴する部分があった(特にアレンジについて)。

歌詞については、今振り返ると忌野清志郎の「君が僕を知ってる」とか「わかってもらえるさ」に影響を受けていたのだなあと思う。
後で「あれ?似てるな」と思ったけど、もしかすると知らず知らずのうちに刷り込まれていたのかもしれない。
でもまあ音楽は往々にしてそうやって連なっていくものだと思うし、このよくある普遍的な「わかってもらう」という主題で振り向けられている世界観は清志郎さんのそれとはやっぱり違う(あちらの方がポジティブで潔いと思う)。

当時の僕はどちらというと歌詞の世界観は谷川俊太郎のようにしたくて、全体としてしなやかさや丸みがあるけど、しっかり根付くフレーズを組み込むということが意識にあった。
そうでないと、そもそもリズムに言葉が乗らないし、リズムが強すぎて聴いた後に言葉が何も残らないからである。
リズミックな曲を作るとこれが悩みどころになってくるが、というのも強い言葉を置かないとメロディがリズムに流されてしまうのである。

それで「みんなわかってもらいたい」という強い言葉(当然「みんな」には「全員」と「全部」の含意がある)のアイディアがまず最初にあって、筋書きとしてはそれを歌詞世界の中の「これは油絵だよ、きみ」というフレーズではぐらかしておいてから落着させるというのが僕のねらいだった。
その線で諸々推敲した結果(ここがミソかもしれないけど割愛)として、「あんたになんか慰められたくないね」とか「内臓の中に住んでやがる黒い虫が笑っている」という表現につながっていく。
そして結果的に「まっすぐひねくれた」雰囲気を醸したものを表現することができた。

ここで出てくる「連中」って誰ですかと聞かれたことがあったけど、正直作った本人もよくわからない。そもそも最初は「連中」じゃなくて「電柱」だったから、完全な語呂である。
(歌詞についての関連記事:歌詞についての四方山話

ビデオにあるレコーディングの音源ではせーので録ったバンドのオケに加えて、さらにハモンドっぽいオルガンとリードギター1本をオーバーダビングした。
サビではオクターブ下のボーカルがダブリングされている。
いずれも楽曲の基本ラインを補強するために彩りを添えたかっただけなので、聴く人によっては気付かないくらいの効果に留めてある。
使用したトラックはそれだけである。

エンジニアは瀧口和徳氏で、オケとボーカル録音をアナログテープで行い、それをプロツール上にてミックスした(氏はいまや数少ないアナログ録音経験豊富なエンジニアである)。アナログテープで録音をやりたかったのはそれをやったことがなかったので単純に興味があったことと、音質としてアナログ独特の詰まったウォームなサウンドが好きだったからである。
加えて本作の音圧は僕の意向で耳障りにならないよう低めに設定されていることなどもあり、今聴くと完全に時代と逆行しており、楽曲コンセプトも相まって大変にシュミシュミした音源になっている気がする。

また本ビデオの撮影は当時美大生のアートチームが行い、監修を次廣靖氏に行って頂いた(詳細はyoutubeのクレジット参照)。
企画の段階で、シンプルでコンパクトなものをというオーダーを出していたこともあって、背景はただただ白く、演奏を風景と慎ましく淡々と撮り、そこに影を使った演出が施されている。派手さは皆無で、今観るとまるで独特の静けさがあり、古武士のようなビデオである。
映像に映っている当時のベーシストは木村研一。